カナダっていいとこ?

カナダ在住40年余の私に初孫が与えられたのを契機にこのブログを始めました。カナダのことや私の生活のことなどシェアさせていただければ幸いです。

カナダで初孫を迎えたジイジのつぶやき

私は今、カナダのトロントというところに住んでいる。

昨年12月にクリスマスカードに以下の一文を同封して発送した。その時は「1頁の自分史」という気持ちで書いたのだが、私の家族が3人から4人になるまで73年かかったのに比べ、4人から5人になるのにはたったの1年8か月しかかからなかった。初孫、大成・レノックス・タナカが7月27日にトロントで生まれたのである。

 

「三人の家族が四人になるまでに73年かかった男の話」

  私が東京で生まれた時、私には両親と私しかいなかった。だが、私が生まれ

る前に、両親には二人の娘がいた。私の姉たちだが、長女は房子といい、3歳

で病死した。次女のサクエも5歳で亡くなった。その後、確か6年ぐらい経っ

て、昭和19年の3月、太平洋戦争で敗色濃厚となった東京の空の下、43歳

の父、善吉と42歳の母、イクとの間に私が生まれた。明治生まれの叩き上げ

の畳職人の親父は商売っ気もなく、家は貧しかった。

 

 私も4歳の時に腸重積にかかり、あと1時間、病院に駆けつけるのが遅かっ

たら死んでいたところだった。リヤカーの上に布団を乗せ、その上に私が横た

わって病院に運ばれて行ったイメージがおぼろげに脳裏に残っている。その時

必死にリヤカーを引っ張って行った親父の胸は張り裂けんばかりだったと思

う。おふくろも「また幼子の命が失われるのでは。。。」と暗然たる思いに取

りつかれていたに違いない。私の記憶では、その日が日曜日であったにもかか

わらず駆け込んだ病院に地元で名医と言われた医師がいて、「すぐ手術だ」と

判断した。

 

 今でも私の右下腹部には大きな手術の跡が残っている。その医師が、「あと

1時間来るのが遅かったら、この子の命はなかった」と両親に言ったのだ。終

戦1年前、何もかもが不足し、戦争の惨禍が日本全土を覆いつくしていた暗黒

の世にあって、神が私の家族に奇跡を起こされた。私はその時死なず、そのの

ち父とは13年間、母とは18年間、この世でともに生きることができた。

私が22歳の時の9月、母が亡くなり、私は一人になった。そして私は生き、

28歳でカナダのバンクーバーに渡った。1972年のことだ。

 

 それから3年後にこれも神のまことに奇跡的な方法で、妻・加代子と巡り合え

ることができた。私の家族が二人になった。1978年4月にバンクーバー南郊

のリッチモンドで私たちの間に息子、ダニエル・潤が生まれ、家族三人が復活した。

私たち家族三人はその後、私の仕事の関係で東部ケベック州モントリオールで約4

年過ごした。その後、1991年、現在地のオンタリオ州トロントに移り住ん

だ。ダニエル・潤は東京、セブ(フィリピン)で7年半過ごし、セブで巡り合

った新里咲乃さんと2016年11月、トロントで結婚した。これも神の豊か

な恵みと感謝せずにおれない。私が73歳になって私の家族が初めて四人とな

ったのだ。

 

                                                          2017年12月  田中 義章